環境破壊

常に、就職について考える環境にあると、本当にいろいろなことをおもう。仕事で人は変わるし、人で仕事も変わるし、人や仕事が変われば世の中も変わるだろうし、「働かない」という選択肢も含めて、人と仕事は切り離せない、とか。
どこで好い機会を掴むことができるか、いつ何を好い機会だと気付くことができるか。
今、ふと聞こえた女子高生の会話。「二郎丸が担任だったときはねぇ−−−」…じろうまる。ジローマル。ジローラモ?イタリア語の先生だったりして?ぷぷぷ。なんて妄想から、イタリア語を習いたくなって、もしも10年後くらいに(アメリカではなく)イタリアが急スピードで世界の中心的国家になっていたとして、日本にもイタリア系企業が続々と入ってきて、数少ないイタリア語ペラペラのおばちゃん引っ張り凧!て、なんかカッコイイかも、とか。
未来は、読めないからおもしろい。
高校卒業間際、就職先を決めるとき(商業高校生は、成績が下の中くらいでも、ある程度こちらが選べる時代だった)、うちの母親は「お金だけじゃないよ。1番だいじなのは、やり甲斐よ。」と、言った。その時は、よくわからなかったけど、今は、その通りだと思う。でも、やり甲斐を感じるかどうかは、やってみないとわからないし、やってみたいと思う仕事が見つかったとしても、その機会に恵まれるかどうかは、自分だけでは決められない。
だとしても、いくら妥協をしなければいけないとしても、良心が「やりたくない」と、感じることは、自分の仕事にはしないほうがいいとは強く思う。いくら楽チンでも、いくら儲かっても、やっちゃいけないと思いながら働いていると、予想外に壊れていくように思う。やり甲斐まではムリでも、せめてそれだけは。麻痺って一番こわい。